東山道武蔵路


先日のブラタモリでやっていた国分寺東山道
地図を見ると東山道武蔵路の某地点から東側数kmの場所に三十数年間住んでいたんだけど、その存在すらブラタモリを見るまで知らなかった。無理もない1300年前の古道である。鎌倉街道より前に出来た道。(鎌倉街道は学校で習った記憶があるんだけど東山道はまったく記憶にないんですよね)東海道が開拓される前までのルートだそうで、いにしえの都があった京都、奈良から各地の国府に伸びていた古道。特に歴史が好きとかというわかではないけど、生まれ育った近くの古道となると興味がわいてきた。そういや、去年、西国分寺の近くを通った時に、道路に平行して、だだっぴろい歩道だなぁとだけ思った道が東山道武蔵路の上に作られた歩道だった。
東山道武蔵路というのは、上野の国から武蔵の国の国府があった府中まで、ほぼ一直線で真南に向かって作られた道で、都内では現在の府中街道の東側あたりのルートである。下の写真は、先日の日曜日に西国分寺近辺で撮影しました。なんと、東山道の隣には高層集合住宅がひしめいている。1300年前に往来した人々はこんなになるなんて想像していなかっただろうね。逆にタイムマシンがあれば、この東山道武蔵路を歩いてみたいね。
興味があったので、東山道武蔵路を調べてみると枝道で東山道伊利麻路(入間路)なんてのがあったらしい。(「新説 武蔵国の国道 伊利麻路」 大野七三著)入間を伊利麻と書いたらしい。なんか、この方が奥ゆかしというか気品があるというかネ。本に掲載されていた伊利麻路の想定地図を見ると結構、日高方面に自転車で行く時に使っているルートとだぶったりして、なんか嬉しくなったりしてネ。
さらに調べてみると万葉集に、この入間路の事が詠われている。
「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 大家が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)
大家が原の場所は、現在の越生から坂戸の一部大家付近と推定されるだけで確定はされていないようです。詩の意味は、入間道のおおやが原のいわい蔓(植物)を、引けばぬるぬる寄ってくるように、あなたと私の仲を絶やさないでください。
万葉集なんて、本当に興味がなかったけど、古道にからめての詩となると改めて興味がわいてきて、この詩に出てきた大家が原が、どこなのかな?なんて推測するのも楽しいネ。
東山道武蔵路の後は、南下して、国分寺跡、国分尼寺跡に向かうのであった。続きは明日。


東山道武蔵路保存路の中間地点より北方面を撮影

東山道武蔵路保存路の中間地点より南方面を撮影